【信長は悪くない】延暦寺焼討は仕方がなかった?織田信長の真の性格とは

「尾張の大うつけ」と呼ばれた織田信長。 しかし、実際は「常識ある大戦略家」だった…!

織田信長ってどんな人物?

織田信長

時代:戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代
生誕:天文3年5月12日(1534年6月23日)諸説あり
死没:天正10年6月2日(1582年6月21日)
幼名:吉法師(幼名)、信長
渾名:第六天魔王、大うつけ
主君:織田信友→斯波義銀→足利義昭
氏族:織田氏
正室:濃姫

ドラマや映画でもたびたび演じられる!

織田信長を演じる俳優の小栗旬さん

映画「信長協奏曲」

織田信長を演じる俳優の東山紀之さん

時代劇「信長燃ゆ」

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

織田信長を表す川柳「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

画像はこの川柳のパロディです。

「恐れる敵は誰もいない」という"魔王"的イメージを持つ信長

出典:教科書は間違い!? 「革命家」ではなかった織田信長の真の姿とは

戦国BASARAの織田信長

かなり恐ろしい容姿で描かれることが多いです。

織田信長はその荒々しさと仏教寺院に対する厳しい態度から、仏教破壊の神である「第六天魔王」というあだ名で恐れられていました。

第六天魔王の代名詞「延暦寺焼討事件」

織田信長によって焼かれる延暦寺

全ての伽藍が焼き落とされ、逃げ遅れた僧たちは皆殺しにされました。

延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。

出典:天台宗総本山 比叡山延暦寺

姉川の戦いなどで知られるように浅井・朝倉両軍が謀反を起こし、信長と戦を始めました。
信長は延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったとして、軍事拠点を完全に崩壊させるという名目の下、延暦寺を焼討しました。

延暦寺側に焼討を事前通告していた…?

浅井長政・朝倉義景に加担したら焼き討ちすると、比叡山側に事前に通告していた。その約束はホゴにされましたが、ここで見逃せば予防刑にならない。絶対に処分しないといけません。決して個人的感情や残虐な性格だからなのではなく、統治するためのすべなのです

出典:明智光秀の子孫が新解明する「間違いだらけの織田信長」

織田信長による焼討にあった延暦寺

織田信長は何の理由もなしに延暦寺を焼討したのではなく、事前に延暦寺側に条件を言い渡したうえで、それを延暦寺側が破ったから制裁を加えたようです。

織田信長は「大うつけ」ではなかった…?

当時の尾張は織田一族同士で戦い合う状況でいつ暗殺されてもおかしくない。信秀はいちばん優れた息子の信長にうつけを演じさせたのです

出典:明智光秀の子孫が新解明する「間違いだらけの織田信長」

織田信長は生きるために「大うつけ(大馬鹿者/無法者)」を演じていたようです。

「尾張の大うつけ」と呼ばれていた織田信長を演じる木村拓哉さん

「うつけ」
ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。うつけ者ともいう。

本当はとても保守的な性格だった!

宣教師が描いた織田信長とされる肖像

現代において描かれるイメージに比べ、とても穏やかな印象を受けます。

実際は古くからの権威に対しては敬意を払い、自分の利益になる既得権は出来る限り保護するなどというむしろ保守的・合理的な手段のもと、勢力を拡大し続け天下まであと一歩のところまで登り詰めたのだ。

出典:教科書は間違い!? 「革命家」ではなかった織田信長の真の姿とは - Excite...

たしかに新しいものをいち早く取り入れようという姿勢や柔軟な思考力はあったようですが、本当は伝統を重んじる性格でもあったようです!

とても庶民派な一面も!

ゲーム「信長の野望」の織田信長

威厳のある精悍な顔つきをしています。

織田信長は身分に拘わらず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が数々の文献に残されている。
実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際にはその姿を庶民の前にさらしている。

出典:織田信長と言う人物に迫る(1) -戦国武将

恐ろしいイメージからは想像もできないほど、庶民的で気さくな人物だったようです。

織田信長は実際にはとても戦略的で人情味に溢れた人物だったようです!
皆さんが持つ織田信長に対するイメージも変わったのではないでしょうか!

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