名女優・高峰秀子の逆境に負けない凛とした生き方に感動【強欲な養母】【名言】

戦前戦後に銀幕の大スターとして活躍した高峰秀子さん、不遇な家庭環境や多忙すぎる芸能生活においても凛とした姿を忘れないまさに日本の宝とも言える方です。

高峰秀子

高峰秀子(たかみね ひでこ)

1924年-2010年

女優・歌手・エッセイスト。

5歳から子役として活躍し、生涯で400本以上の映画に出演した日本を代表する名女優。

高峰秀子の出演作

戦前から子役として超一流芸能人として活躍していたんです!

「東京の合唱」(1931年) 当時7歳の高峰秀子

当時の子役は、女の子であっても、男の子の役もやることがあったそうです。

「二十四の瞳」(1954年)

可憐すぎませんか??高峰秀子の代表作になりました

「浮雲」(1955年)

「稲妻」(1952年)

バスガールさんでしょうか?かわいすぎる!

「乱れる」(1964年)

加山雄三が兄嫁への許されざる恋に悩む映画だそうです

それにしても本当に美しいお顔立ちでまるで人形のようですね。

私生活のほうは苦しみが多かった高峰秀子

華々しい芸能界での経歴とは裏腹に、高峰秀子の私生活は苦しみの多いものでした……

4歳で母親と死別し、邪念の塊のような養母・志げに引き取られ、5歳から映画界のスターとして稼ぎ出した莫大な資産すべてをこの養母の欲と見栄のためにむしり取られてきた半生。親戚縁者何十人もの生活を幼い肩に背負い、学校にも行けず、好きでもない女優の仕事を50年以上も続けてきた高峰秀子の人生は、想像を絶する苦難と絶望の日々である。

出典:追悼 高峰秀子さん – salitoté(さりとて)...

芸能界自体、そもそも母につれられて入ったものだった。

芸能活動が忙しすぎて学校に行けない!

小学校にあがる前から芸能活動をし、大スターで多忙を極めたためほとんど学校に行く時間がなかったそうです。さすがにかわいそうですよね。

学校に少しだけ通っていた頃の高峰秀子

しかし結局養母に「仕事か学校がどっちかをとれ」と迫られ、親戚たちを食べさせるために学校は辞めざるをえなかったそうです。

金に強欲すぎる養母の存在

当時、高峰の映画出演料は1本100万円、日本映画界トップのギャラであった。時の首相、吉田茂の給料が4万円ということを考えれば、それがどれほど途方もない額かが想像できる。しかし、この高峰秀子本人が「デブ」と吐き捨てるように呼び、生涯憎み続けた養母・志げは、色と欲に飽かせて高峰の稼ぎを湯水のように使い果たし、ようやく出会った生涯の伴侶と結婚し自由の身になれたとき、高峰の手元にはわずか6万円しかなかったという。

出典:追悼 高峰秀子さん – salitoté(さりとて)...

当時の人気子役って時の首相の25倍も稼ぐような仕事だったんですか…

養母との確執に苦しんだ高峰秀子

もともと肉親に愛された記憶がほとんどない孤独の中、売れっ子で莫大な稼ぎがあったため必要以上の責任を幼い頃から持たされていたんですね……

女優を55歳で引退後はエッセイストに

家族を食べさせるために猛烈に働いた高峰秀子だったが、引退後はエッセイストに。

しっかり教育を受けられたわけではなかったが、人生経験豊富な彼女の言葉には人の心に響く重みがあります。

高峰秀子はエッセイストになった

料理上手とも知られ、愛する夫のためにつくった料理を紹介した高峰秀子

ささやかな幸せな家庭への憧れは強かったでしょう

高峰秀子の名言集

最後に心にしみる高峰秀子の言葉を。

「人はその時の身丈に合った生活をするのが一番です」

出典:読書のおと(斎藤明美著作のページ)

「私は考えても仕方のないことは考えない。自分の中で握りつぶす」

出典:高峰秀子 : フリータイム・人生 まだ旅の途中【平蔵の独り言】

逆境の中でも凛とした姿勢を忘れない高峰秀子

「心のノートにゴタゴタ書きこみたくない。いつも真っ白にしておきたい」

出典:高峰秀子 : フリータイム・人生 まだ旅の途中【平蔵の独り言】

「人間は一人では生きることも死ぬこともできない哀れな動物、と私は思う」

出典:名言格言集 高峰秀子語録

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