大村益次郎の生涯と後世に残した名言のまとめ

維新十傑と言われた大村益次郎。木戸孝允から絶大な信頼を寄せられていた彼の生涯と名言についてまとめてみました。

大村益次郎について紹介

【維新十傑】大村益次郎

元は医者であった大村益次郎。
長州藩の軍事を担当し、作戦立案等の参謀役でした。

大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。

出典:大村益次郎 - Wikipedia

長州藩の兵装を近代化させ、討幕を成功させた立役者です。

3:34 花神・第1話オ-プニング.m4v

花神・第1話オ-プニング.m4v

実は大河ドラマの主役になったこともある大村益次郎。
司馬遼太郎原作の『花神』で彼の生涯が描かれている。

大村益次郎の生涯

長州で生を受ける

村の医者の子供として1824年に生まれた大村益次郎。
若い頃は医者になる為医術の勉強をしていました。

長州の村医の子として生まれた大村益次郎は、医学を修めるために梅田幽斎、広瀬淡窓に実地・漢文の手ほどきを受ける。彼がその才能を現すのは、緒方洪庵の適塾に入塾してからである。この全国に名の知れた適塾において塾頭まで務めた彼のオランダ語の実力は、師の洪庵を凌ぐほどだったという。だが、入塾5年後、益次郎は何のためらいも無く故郷へ村医となるべく帰郷してしまうのである。

出典:幕末人物セレクション〜大村益次郎

結局医者として生計を立てようとするも、患者の足は遠のいていきました。
そして、大村益次郎は宇和島藩にその蘭学の語学力を買われ、仕官をすることに。

江戸、そして長州へ

宇和島藩の参勤交代につき従い、江戸へ行き、蘭学所を開いた大村益次郎。
そして幕府によって講武所の教授になり、さらに桂小五郎に誘いで長州藩に戻ることになりました。

長州藩はその後激動期を迎える。禁門の変、蛤御門の変、馬関戦争、第一次長州征伐、藩内抗争…。だがこれらの政変に益次郎は全く関与していなかった。身分が低く藩は彼の存在を無視していたのである。だが、彼は突如歴史の表舞台に登場する。反幕派が主導権を握った藩に、潜伏先から桂小五郎が帰国。益次郎を軍務大臣に抜擢するのである。おりしも第二次長州征伐が決まり、幕軍が迫ろうとしている矢先であった。 長州側から四境戦争と呼ばれるこの戦争において、高杉晋作が海軍を、そして益次郎が陸軍を担当。

出典:出典:幕末人物セレクション〜大村益次郎

蘭学で得た軍事の知識を活用し、作戦立案をしました。
その後長州は破竹の勢いで江戸に向かい、江戸城無血開城。
その後は上野の彰義隊鎮圧等にも関わり、明治時代になりました。

大村益次郎暗殺

多くの功績を遺した大村益次郎ですが、明治2年に旧士族によって暗殺をされてしまいました。
武士の特権を否定していたため、恨みを買ったしまったのが原因です。

大村益次郎の名言

大村益次郎が後世に残した名言とは?

では生涯を見たところで、彼が後世に残した名言を見てみましょう。

常識を発達させよ。
見聞を広くしなければならぬ。
小さな考えでは世に立てぬ。

出典:大村 益次郎【おおむら・ますじろう】の名言 - パーソナルトレーナー浜本哲治

常に高いアンテナを張ることが大切だということですね。
幅広い知識を持つ大切さを教えてくれています。

君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国の行末

出典:『大村 益次郎 辞世の句 最後の言葉』

これは辞世の句ですね。
最後まで国の行く末を案じていたということがよく分かる区になっています。

花神

大村益次郎のまとめは以上になります。
大村益次郎は多くの書籍で取り上げられていますので、より矯味がでてきたら、是非ご一読を!

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