日本画家、東山魁夷の代表作品と評価されるまでの道のり

東山魁夷さんという画家を知っていますか? 皇居宮殿の壁画も依頼されるほどの達人です。彼の絵と人生には誰もが心をうたれます。

東山魁夷

昭和を代表する日本画家、東山魁夷

東山魁夷(ひがしやま かいい)さんは昭和の日本画家です。展覧会で賞を獲得したのは52歳と大器晩成ながら、様々な作品を生み出しました。

東山魁夷の代表作品

戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。

出典:東山魁夷 - Wikipedia

「残照」作、東山魁夷

出典:pbs.twimg.com

「残照」作、東山魁夷

日本美術展覧会で特選に入った作品です。千葉県鹿野山の九十九谷と、甲州や上越の風景を組み合わせた架空の風景です。

この作品を描いた二階の部屋は、窓から絵の寸法の仮張りが入らないため、半分にして部屋の中でつなぎ合わせ本紙を張って制作した。 制作しているうちに、窓の大きさのことを忘れてしまい、出品という時になって窓から出なく、驚いて絵をはがすやら、仮張りを2つに離すやら、やっとのことで、第三回日展に出品した。 この作品は特選となり、政府買い上げとなって、ようやく私の仕事が世の中に認められるきっかけとなったのである。

出典:市川市東山魁夷記念館│≪残照≫ を出品。

「道」作、東山魁夷

「残照」から三年後、試作を重ねて出来上がった一番の代表作です。絵の真ん中をただの道が貫いている、という構図は、当時の世にさぞ衝撃を与えたことでしょう。

この道は青森県の八戸の牧場の道をモデルにしていますが、近くの新川の辺りが、まだ田園風景でありまして、 両側が田んぼになっていて、その土手のところに草が生えていて、道がありました。 そういう所を朝早く起きて参考にして描いたのですが、当時の日本の人々の心に通うものがあったとみえまして、 皆様から多くの共感を得ることができたわけです。

出典:市川市東山魁夷記念館│≪道≫ を出品。

山種美術館@yamatanemuseum

昭和43年に皇居宮殿を飾るための作品の一つとして描かれた東山魁夷《朝明けの潮》。山種美術館所蔵の《満ち来る潮》は、宮殿の大作に感激した初代館長・山崎種二が国民にも鑑賞できるようにと同種作品を魁夷に依頼したものです。(山崎) http://t.co/ybkFmMTmna

「朝明けの潮」作、東山魁夷。実力が大きく認められた東山魁夷さんに、栄誉ある大作の依頼が舞い込んできました。

宮内庁から風景的な題材で、「日本へ来た」という感じを与えるものと示され、海の構想が浮かび、各地の海岸をめぐって、潮風や打ち寄せる波に大自然に息吹、鼓動を感じとり、誰も描いたことのない波を描きたいという彼の情熱を壁画の中に吹き込んだ作品です。

壁画のある部屋は、「波の間」と名づけられました。

出典:東山画伯物語:実年期 | 東山画伯の紹介 | 香川県立東山魁夷せとうち美術館

東山魁夷が評価されるまで

若かりし頃の東山魁夷

出典:pbs.twimg.com

若かりし頃の東山魁夷

東山魁夷は勉強熱心で、挿絵のバイトをしながら東京美術学校に通っていました。ベルリンの大学にも留学し、実力を身につけていきました。結婚もして幸せだったのですが、この頃から彼の家族に暗い陰が差し始めます。

そして戦争が始まり、知人の弁護士に相談をして神戸の家を処理しました。その1ヶ月後に父親が心臓喘息で亡くなります。
婦人と母親と3人で飛騨の高山に疎開をしていましたが、容赦なく彼の元に一通の電報が届き徴兵されました。熊本の連隊に入り、爆弾をかかえて戦車にぶつかるという訓練を受けているある日、熊本城の天守閣から肥後平野を見下ろし雄大なながめに衝撃を感じ、純粋な心で自然を見ていなかった自分に気づかされます。

出典:東山画伯物語:青年期 | 東山画伯の紹介 | 香川県立東山魁夷せとうち美術館

東山魁夷が衝撃を受けたのは、熊本城からの景色

家族が倒れ、自分も兵役でボロボロ。そんな彼を芸術家として「覚醒」させたのは、熊本城からの一つの景色だったのかもしれません。

既に兄を結核で亡くしていたが、続いて戦中に父が、戦後ようやく再生の一歩を踏み出したところで母が、更に第1回日展での落選直後、結核で療養中だった最後の肉親である弟が、それぞれ他界してしまった。

 やっとのことで再び絵筆を手にしたとき、彼は全ての肉親を失い、絶望のどん底にいた。諦念、そして全てあるがままをうつす静かな心境・・・これが結実し初めての評価を受けたのが、2年後の「残照」であった。戦争のさなか開眼した魁夷の目は、確かに自然の息吹を捉えるようになったのである。

出典:東山魁夷

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