【蟹工船・小林多喜二】特高警察による惨たらしい拷問の果てに・・・【閲覧注意】

日本のプロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二は特高警察に捕まったのち、凄惨な拷問を受け亡くなりました。その真相に迫ります!

プロレタリア文学の代表的作家・小林多喜二

小林多喜二

誕生:1903年12月1日
出身:秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)
死没:1933年2月20日(満29歳没)

小林多喜二の性格

多喜二は明るい性格で、とても話し好きな人物であった。 母思いで地下に潜入後も原稿料は母親に送り、死の間際にも「母親にだけは知らせてくれ」と懇願した。

小林多喜二の代表作『蟹工船』が2008年にブーム

蟹工船ブーム

戦前のプロレタリア文学を代表する小林多喜二の小説『蟹工船』が、2008(平成20)年1年間だけの売り上げが、各社の文庫版・マンガ版などの総計で80万部に迫るベストセラーになった現象。

映画化された蟹工船

戦前の資本主義時代の労働者を描く小説が現代に復活した理由は、新自由主義経済で格差が拡大し、貧困層の労働実態・生活実態は戦前と変わらないではないかと、当事者たちが感じているためと指摘されている。

いわゆる「蟹工船」ブームは、作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんが対談で(「毎日新聞」1月9日朝刊)、現代日本と「蟹工船」を関連づけて発言したことを契機に、書店で売り上げを伸ばし、増刷を繰り返すことで発生したとされるが、ここ数ヶ月のあいだに拍車がかかっているように見える。いまや、平成時代のある社会状況を映し出したキーワードとなりそうな勢いである。日本社会に広く浸透しつつあるように見える「蟹工船」ブームは、現代日本のどのような状況を映し出しているのであろうか。

出典:教育×WASEDA ONLINE

小林多喜二の生涯

小林多喜二は大学から文学に関わる

生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現小樽商科大学)へ進学。

この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。

卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキに出会う。

小林多喜二は特高警察にマークされる

1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。

同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。

翌1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めると同時に、警察(特に当時の特別高等警察)からも要注意人物としてマークされ始める。

特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。
特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。

出典:小林多喜二の生涯

取り締まりを逃れ、地下活動へ

拓銀を解雇(諭旨免職)され、翌年春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。

1930年6月24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受ける。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。

獄中での惨たらしい死・・・【閲覧注意】

特高警察に逮捕された。

1933年2月20日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。小林はそこから逃走を図ったが、逮捕された。

拷問による内出血で太腿が真っ黒に・・・

出典:pbs.twimg.com

拷問による内出血で太腿が真っ黒に・・・

手塚英孝が『小林多喜二』によると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死亡が確認・記録された。

「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。

出典:小林多喜二の生涯

特高警察の小林多喜二への憎しみ

警察が発表した死因は心臓麻痺。3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶり

特高警察からしたら拷問は当たり前

特高出身者の本

「特高(特別高等警察)」への悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていたからではないか。

「そりゃあ刑事の対象は罪のおそれで比較的おとなしく卑屈にもなるが、特高はこれを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた加わるのですよ。これは共産主義者が非合法運動をやっているのですから。

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

… わたしは特高になったとき、最初に先輩に訊いたことがある。いったい、こんなに乱暴に扱っていいのか、とね。そうしたら、なにを言ってるんだ、なんならむこうに訊いてみろ、と話にならない。共産主義の側からいえば、おれたちは革命をやるんだ、お前たちと戦争しているんだ、立場が逆になれば、おれたちがおまえたちを取締る、ということでしょう。まかりまちがえばあなたたちを殺しますよ、というわけです。

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

あたりまえの話なんで、不法だなんだというようなことは言わぬのだ、と。そういうような状態のなかに、取調べる側も取調べられる側もあるので、いまの人たちが考えるように、そうおかしくはないんです。」(同上書 P.125)

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

当時の日本について考えさせられる

多喜二の書いた『蟹工船』は現代において再ブームとなり、その功績が見直されています。当時の日本ではなく現代に生きていたら、より活躍できたかもしれませんね。。。

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